純粋に哲学。 (「そんなん興味ねーよ、バーカ。」と思う方は
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多分、まともな人間であれば最初に誰でも考える事がこれ。
「何で自分は生きてるんだろう?」
勿論、この程度の疑問は幼児期の疑問だ。そこで終わらない。
ただ、殆ど全ての人間は視野が狭い或いは、世界観、人生観が狭いために、「今ある目の前の現状」だけに目が行ってしまい、そんな疑問はすぐに頭の片隅に追いやられ、日々の「忙しさ」に忘れてしまう。

「忙しい」なんて文句はあくまでも言い訳に過ぎないんだが、、、
何故なら、
世界中の人間を探してみても、一分一秒を争い、空間座標中で、「ある一定の時間に特定の空間にいなければならない人間」など存在しない。
体の位置、発する言語、全ての行動に関し、予定がなされ、それが小数点以下の秒数でも狂うと世界を含んだ全てが崩壊するなんて人間は存在しない。
故に、
「忙しい」なんて言葉はあくまでも言い訳に過ぎない。
大人、特に団塊の世代が良く使う言い訳だ。
それが自分にとっては許せないし、反吐が出るほど毛嫌いしているのだが、、、
自分が時間外作業も含めて、一日ほぼ20時間ほど働いていた時も自分の中では決して「忙しい」と思った事もないし、ましてや泣き言を言った事さえない。
それを世の人間は一日たったの10時間程度の作業で「忙しい」とか「時間が無い」「休みが欲しい」「仕事が忙しくて出会いが無い」なんて事を平気な顔してほざく。
俺の気持ちとしてはそう言う人間に対して一発ずつ顔面に正拳突きをかましたいぐらいなんだが、、、それをすると流石にいくらこちらが正論を持ち出そうと社会的には犯罪者扱いになってしまうので今の所せずにいるのだが、、、まぁこの我慢もいつまで続くのやら。
閑話休題
日々過ぎる下らない日常に人々が目を奪われて、どうでもいい、下らない小さな世界の小さな社会的茶番劇に目を奪われているうちに、ある極少数の人間(それを自分の言語では試しに「稀有で崇高な存在」と呼んでみるが)はその大きな問題を考え続ける。
それは彼等、彼女等に人類が文明を持ち、深く思考する力を持っているからだ。
人類は深く思考する事で進化してきた。
「文化」や「文明」の進化には「深い思考」が必要で、それは脳医学的に捉えれば前頭連合野の作用である。

即ち、「人間が、人間たる為の活動」。「人間が人間である為の行為」であり、それが人類を「その他の動物や植物、生物」から存在を分ける必要不可欠な要素である。
即ち、そう言った活動や行為をしないと言う事は自分が人間以外の動物と認めている事と結果的に同じ事になる。
まぁ、それは一旦置いておき、
恐らく次に発展する疑問が、
「何故人は生きるのか?」と言う問に発展し、
それがいつしか「個としての目的」と言うより、「集団としての目的」に広がっていく。
即ち、
「人類は何故生きているのか?」↓
そして、それが進展し続ける。
「人類、人間、それ以上に生命体を作ったこの惑星は何故存在するのか。」↓
「この惑星を形作る物質は何故存在するのか?」↓

「物質は本より、空間や時間、そしてエネルギーは何故存在するのか。」
それが恐らく大きな疑問の人間が行き着ける大元の問題。
それを総称して
「この宇宙は何故存在するのか。」と置き換えても良いだろう。

ただ、その時に問題を解決する為、科学は助けてくれない。
良く言われる事だが、「科学は何故の質問に対して答を与えてくれない。あくまでもどのようにして、と言う質問に対してだけである。」
即ち、考えが浅い時に思いつく「科学が全てを解決してくれるだろう。」と言う浅はかな読みは何も答を齎さない。
ニーチェは「全てのモノに価値や意味は無い。」と結論付けたと言われる。
ただ、そこで思考過程が終わってしまったのかは今の自分に知る由もない。あらゆる歴史的事実、又は史実は直接証明不可能である。
「だからこそ自分勝手に理由や価値、意味なんてものは作るのだ。」と新たな態度を取ったとも言われるが、、、それは問題ではない。
勿論、「意味や価値は無いから自分で作り出す。」と言う行為はあって良いのだが、それは今回、問題を解決しない。
問題はあくまでも人類が存在する「目的」を聞いている。
「人類の目的は?」まず、「個体としての目的」は子孫、つまり娘や息子を残し、育てる事だ。
それは誰もが同意する事実だと考えられる。
それを系統的に見れば「子孫の繁栄」と言う答に行き着く。
あくまでも、かの有名な「進化論」から案を得た時の話だが。
しかし、進化論自体は別にそう言う事を論じているわけではない。
あくまでも「どのようにして?」に対しての疑問にのみ答を与えている。何故ならそれは科学だから。
「適者生存」「人為淘汰」「自然淘汰」を論理に用いていると言う事だけだ。
それが「何故か?」との問に理由を与えられる理論は未だない。と言うよりそう考えるほうが前提として間違っている。
自分が最近思いついた「目的」とは単純に一時的な答が言う、「人類や生命体としての目的」ではなく、あくまでもそれ以上の存在「物質や存在としての目的」である。
即ち、その推論とは「物質や存在が誕生した、その目的とは意識の発生であり、そしてその先の目的とは宇宙に意識を放ち、それら一つ一つを繋ぎ合わせ、結合し総体としての大きな一つの意識体を生み出す事。」と言う可能性である。
勿論、その推測全て真っ向から否定も出来る。それは知っている。
人類の、生命体の進化が意識の誕生を助長するならば、その先に目的があっても不思議ではないだろう。
特に近年のネットワーク技術向上、科学技術の発展により生物と無生物の境界が曖昧になりつつある、コンピューター(演算機)技術の発達等を考慮すれば自然とその答に行き着く。
勿論、「その先が何の為なのか」は現時点で知る事ができるような状態に、人類は達してない。
「宇宙誕生」が詰まる所は「意識と無意識の鬩ぎ合い」ではなかったか、と言う疑問と、
総合的に判断するにあたり、意識と言う存在はあたかも無意識の世界から抜け出し、自己進化をしているかのように見える。
無意識が全てを統括、支配する世界に反旗を高々に翻し戦いを挑んでいるようでもある。
人間の意識領域は他の生物の意識領域よりもはるかに大きい。

「自ら死を選べる生命体」は人類以外に今の所存在しない。勿論、「人類が知る限り」と言う条件付ではあるが、、、
その意味は「無意識を、前意識を介してではあるが、制御しようとする作用」にある。
即ち、動物は本能に逆らえない。
植物は本能やそれ以前に無意識さえない。彼等はあくまでも外界に対しての反応のみで生命活動を行なっている。
恐らく意識領域の大きさとしては
物質>植物>昆虫>爬虫類>動物>人類

そして最近ではコンピュータが植物と昆虫の中間辺りに位置し始めているのではないか。
ムーアの法則に従えば「コンピュータの複雑さは時間経過と共に上昇する」。
そして脳医学的に言えば脳は電子的反応と化学反応の二つで構築されているわけだから、複雑さだけを問えばいつしかコンピューターが人間の脳の複雑さの到達する日がいつしかくる。
であるならば、コンピューターが意識、即ち人格を持つ日もいつか来てもおかしくはないと言う事だ。
勿論、コンピュータには人間や生物が持つ化学的な反応を持っておらず、化学的反応は即ち感情を司っていると言われている故に、人格が例え発生してもそれは究極的に論理的、理性的な存在となるであろうとの推測が出ている。
まぁとにかく、自分の推測では
「宇宙の誕生目的は意識の発生」であると言う事だ。
「意識の成長」といった方がいいのか、この場合は。