なぜ「感情」は存在するか?(微妙に中途半端版)

特に人間に。又は高等生物において。そして、ここでの「高等」の定義は脳の複雑さとしての高等である。即ち動物にも感情は存在する。若しくはそう解釈可能であるか、少なくともそう見える。
その「理由」と「由来」を解く。(or at least try to solve.)
まず、構造論的な解釈を進めていく上で必要な事は、つまり構造的、生理学的機構に単純な生物に答えや理由を求めていく作業である。一般的に(若しくは私見として)科学的に「正しい」、もう少し正確に言うならば、「客体的」な理解として生物を考察するならば進化論の立場を取るべきであると考えられる。
・ 蟻や蜂などの昆虫に感情は存在するか?
また、社会性を持つ昆虫と、単独行動を取る昆虫に違いは?
→社会性を持つ昆虫の場合:
個体としての外界に対する反応。総体としての反応=感情?
・ 単体物質(例として鉱物などの無機物)、有機物:アミノ酸塩基(DNA)、単細胞生物、爬虫類、小動物、大動物、霊長類、類人猿、旧人類、原生人類
生命体の「複雑さ」と兼ね合わせ「感情」を解釈していく。
「高等な生物ほど感情を持つ。」と言う推論。そしてその「感情の度合い」若しくは「感情の大きさ」「感情としての反応の深さ」。どのような表現でも差し支えないが、人間又は霊長類等の複雑な脳を持った生物が特に感情をより多く持つと言う推論。ここで言う「高等」の定義=「複雑さ」
自然界を見てみると、「脳」と言う器官を持つ生物ほど「複雑」、即ち「高等」だと言える。
具体例としての順序は例えば、昆虫<魚類<爬虫類<動物<霊長類<そして特に「人間」
→推測1:
感情があれば、繁殖に都合がいい。
特に有性生殖をし、且つ高等である生物の場合、肯定的な感情の場合、子育てと言う視点から見れば肯定的な感情は「安定」を齎す要素になる。
つまり感情があればそのツガイが長い間子育てに従事できる。
言わば「感情」が雄雌を繋ぎ止める言わば接着剤として作用する。
子育て期間中に雄と雌が協力し合えば子供が順調に育つ要因と考えられる。即ち子孫の繁栄に最適である。
子育ての成功確率が高まる。あくまでこれは肯定的な感情の場合のみに適用できる考え方である。即ちその「感情」が逆に働いた時は最悪の場合を予測しなければならない。感情には基本的に喜怒哀楽の四種類があり、組み合わせ次第によってはそれ以上存在する。そして否定的な感情が浮かんだ場合は子育てに支障をきたすものであるとも考えられる。場合によっては子育てどころではなくなる。
→推測に対する理由:
動物としての本能は子孫繁栄である。これは進化論に由来する。
動物の生存目的は即ち子孫の繁栄であり、種の保存である。何よりも生命体(個体)は生命活動そのもの(個体の時間差を使った保存。即ち種の保存。)を継続させる作用を内包している。これはどの生物を取ってみても同じであり、どんな生命体にも当てはまる。例え植物でもそれは当てはまる。
生命体の最優先目的として「自己の生存」と、それからそれがある程度安定してきた場合、「種の保存」がある。
手段は違えど生命体(この場合個体)は自己保存のみでなく、それは全ての生命体には寿命が付き纏う。その為自己保存だけでなく、「種」を保存しようとする。そうする事で「寿命による限界」、または「寿命そのもの」を超えようとしている作用とにも解釈できる。
巨視的に見れば生命体の目的とは子孫繁栄、若しくは同じ個体(単細胞生物における自身の複製)の永続。即ち生命体を機構(システム)として解釈した時、その作用とは、機構自体を継続し続ける。「機構(システム)自体の永続」である。その作用にとって、人間やその他「高等生物」(複雑さと言う意味での高等)即ち動物には都合の良い要素であった。だから高等生物に感情は存在する。進化論的に見てもその解釈は妥当である。即ち、もし感情が「機構」継続にとって不都合な要素ばかり齎していた場合、それは機能として淘汰され、今では存在しない筈である。そしてまた、もしそれが不要の場合は未来において、その機能は淘汰され、消滅してしまうであろう。ラマルクの進化論即ち用・不用説である。
養老猛の著書内で取り上げられている、演算機に由来する人工知能と感情による理由付け。
→物質には元々、「癖」や「重み付け」がその誕生時、さかのぼれば宇宙誕生時に内包されている。故に「感情」(志向性や歪み)が存在するのは必然である。例えば電子に負の電荷が在るように。又は物質には必ず重力が発生するように。そしてあるいはこの宇宙にはフラクタルやカオスがその誕生時から内包されている為である。
もしその「重み付け」が存在しなければ生命自体誕生し得ない。即ちまったくの均衡が保たれている時、まったく何も発生などさえしないのである。つまり「完全、又は完璧に安定した状態」が宇宙で保たれていれば、そこに「動き」さえも発生する事はないのである。それはつまり「熱死した宇宙」からは何も生まれないと言う事に他ならない。
拡張した思考。
「炭素」と言う基本構造から言えば動物と人間の組成は同じ。だから動物にも感情はある。
動物と爬虫類の基本構造は、やはり炭素と言う要素で構成されている為、組成は同じ。故に爬虫類に感情は存在する。爬虫類と単細胞生物の組成は、これも炭素、又はアミノ酸レベルでの組成は同じであるから、単細胞生物にも感情は存在する。
仮に、「有機物に感情がある。」∧「炭素を含むありとあらゆる化合物については有機物。」とすると上記の推測は正しいものとなる。
単体として人間の脳細胞が集まり、その「総体が人格である」と定義できるならば、何かの要素を総体とすれば、その集合により人格の形成が可能と取る事もできる。
即ち、例え個体の蟻に感情が存在しなくとも、それが巣と言う単位であるとか、又は一つのコロニーとしての社会であれば「総体としての感情」はありえるとも結論付けられる。
脳細胞と言う意味で「要素郡の総体として」人格が解釈として可能ならば、蟻一匹単体としての人格は不可能だとしても、総体として蟻の人格は存在し得る筈である。
即ち、固体で存在する昆虫に人格は確立できなくとも、集合として存在する昆虫に人格は存在すると結論付ける事ができる。恐らくそれは「社会」を形成する昆虫に範囲をしぼめた時だけ適用できると言う条件付であろう。
しかし、一番の問題がそれ以前に存在していて、
「果たして感情は存在するのか?」
と言う問題なしに、仮に存在すると仮定して議論を進める事は即ち不毛であるとも言える。