自分はどう振る舞うべきか? 野蛮人の振る舞いか、合理性を持った人間の振る舞いか。...
振る舞い
面白い事考えるなぁ。
しかも、久しぶりの更新。
「理性を優先させるべきか、本能に従うべきか?」大きな課題ではある。
社会性を持つ動物として理性は「持って当たり前」であり、
理性なき社会は存在し得ない。それは「物理的」と言うか、「機構的」に機能しないからだ。
人は特に、「社会生活」をしている時「理性」を優先させ社会機構が機能するように「個人の生活でさえも」制御する事を強いられる。
それを放棄してしまう事も
物理的には可能だが、社会が許さない。
それに、全ての人間が社会性を放棄して自分の都合だけで生活していけば「社会」が機能しなくなり、やがて「その社会」は自己崩壊する。
即ち、「その社会」は無法地帯になり、それは「社会」ではなくなる。
その社会は、無法地帯として荒れればそれ以上「社会」の定義から含まれなくなる。
勿論、それぞれ「その社会の構成員の倫理感覚が良ければ」、無法国家としても成立する。
しかし、それは空想の産物であって、現実にはその状態は不可能である。
法がない国、社会で現存している社会は存在しない。
人間は根本的な要素に汚物を含んでいるから、その要素を含んでいる限り、その「縛り」から逃げる事は不可能である。
(心身は不可分である事の延長)
「社会的責任」人は時としてその事をそう呼ぶ。
その責務を「人間として、人間社会の中でどう果たすか。」
それが最重要問題であり、「果たしているか、いないか」は大した問題ではない。
何故なら、その責務を「果たしたくても果たせない」人間も、社会の中には存在する。
「その能力がない人間」を攻め立てても、何も改善しない。(勿論コレは普段一般人の傾向として8割方の人間が行う事行為ではある。そして「それが愚行だ。」と俺は言っているのだが、それが止む事は決してない。むしろ愚行は加速する。そしていつしか人間が築き上げた文明は荒廃し、消失する。それが文明の行き着く場所。栄枯盛衰。人はいつまでも、いつの時代も汚い。忌むべき存在なのだ。)
人間が、「人間として成すべき」は、「責務の果たせる者が率先してその責務を果たす」事であり、「責務を果たす能力を持たない者を攻める事」ではない。
そこら辺、凡人は常に勘違いしている。
それは時代に拠らず、常に浮かび上がってくる悪しき人間の要素である。
ワーキングプアを「税金払わない。」と攻め立てるよりも、トヨタの社会的責務を果たさせる事を強いなければならない。それを理解しないで人を批判したり非難する資格はない。
増してや誹謗中傷の書き込みなど、人間のする行為ではない。
誹謗中傷をしたければ自分のブログでしろ。と、そんな話。
閑話休題。
人間のする会話の中に、社会的に「避けるべき」とされる話題がある。
特に、見ず知らずの人間の間では。
「死について」の話題だ。
人間は社会生活において、「死について」の話題は避ける傾向にある。
少なくとも、「人間はそうしている」と見受けられる。
(それは勿論「他の動植物、生物、生命体の会話が理解できないから」と言う単純な理由からではあるが、、、)
しかし、本当に重要な事は「死を怖がる恐怖心ゆえ」にその話題を避けて通るのではなく、あえてその命題について言及し、その恐怖を乗り越える事により確立される
「人間性の価値」があり、即ち
その行為をする事により人間が人間たる所以があり、そして「人間の存在価値」がある。「死」は生命体にとって「恐怖」である。本能的に恐怖であり、理性では説明できない。
それは「機能的」にそうあるべきなのだ。
生命体が自らの死を恐怖と感じなければ、それは時間と共に淘汰され、生命体として活動し得ない。
そして勿論、そうでなければならない。
「死」について鈍ければ、その種は絶滅してしまうから。
死が恐怖でない人間がいれば、その人間は誕生したとしても短命で終わる。
「死が恐怖でない種」は、地球の長い時間と共に淘汰されてしまうから。
よって、現存する生命体は「死」を嫌がる。
しかし、人間は動物から少し逸脱しており、その
死を「自ら思考、処理する事」により人間足りえるのであるとも言える。
「自らの死」を理解出来ない人間は、自身を人間と呼ぶ資格を持たない。
人間が人間足りえるのは「理性を持つから」と言う単純な理由だけではない。
動物にも理性は多少なりとも存在する。
しかし、その理性容量が大きい生命体が人間であり、それを確立する為には自らの死、同族の死を理解する必要がある。
その「死」を理解し、それを生命活動の中に上手く取り入れる事により、初めて人間は人間足りえるのであるとも解釈できる。
他生物の死、他者の死、同族の死、血縁関係者の死、そして自らの死を理解し、受け入れて初めて人間は人間足り得る。
人の死には二種類ある。
生命活動の停止、主に心配機能の停止、それによるエントロピーの増加、そして腐敗分解である「物理的な死」と、その人間を知る存在に忘れられる、もしくはその人間を知る存在がいなくなる「社会的な死」である。
俺の祖父母は俺がまだ人間として確立されていない時に死んでしまった。
しかし、彼らの記憶はいつまでも俺が生きている限り生き続ける。
彼らは物理的に死んでしまったが、社会的にはしばらく生き続けられるのだ。
少なくとも俺の記憶にはその消したくない思い出がある。
それがなくならない限り彼らは別の形で生き続けるのだ。
そう考えれば悲しい事や寂しい事などない。
いつしかこの命も絶え、彼らの元や先祖の元に戻るのだから。